ひげ爺の今は〇〇となりにけり。

初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

ぼくが、必ず、リュウマチを退治します!

2021.07.08
難産の末に、産まれてくる子は、愛おしい。
二人は生みの苦しみを味わった。
二人とも、根は明るい性格を有していたが、時には母のない子のように、手探りで立ち向かって行かなければならない場合もある。
妻のノートは、自分では処理できない苦境に立ってしまった、どんつまりの状況の、一つの解決方法だった。
誰にも話せない、心の内であるなら、自分自身に話して、鎮めるしかない。
そして妻は、実際にそれをやり遂げて、夫である自分にもノートの存在を話したことはなかった。
妻は、真に強い女だった。


JR日野駅からゆるやかな坂道を上った、高台地にあるアパートから一歩通りに出た所まで見送ったとき、トラックの運転席に乗り込んだ兄弟たちが頓狂な声を上げた。
「あれ、何? 富士山に似とるようやけど、あれ、ホンマの富士山?」
通りの正面に、富士の威容が、ニョッキと頭を出していたのだった。
自分たち二人は、その時たぶん、妙な誇らしさを感じていた。
「そや、兄ちゃん、富士山を毎日見て、暮らすんやで。羨ましいやろ!」
妻も、間違いない、幸福焼けで、浮き浮きしていた。


単身で挨拶にやって来た、「スー」の決意も変わらない、と分かると、もう誰も家族からの反対はなくなった。
子供ではない、大人の女が決めた結婚相手だ、
苦労するのも本人たちの覚悟の上、他人が口出しできるものではない。
そう考えてくれたのか、
小金井の6畳一間のアパートを引き払い、同じ中央沿線の日野の駅から歩いて5分ほどの2Kの新築アパートの引っ越しの際には、兄弟たちが大阪からトラックで新婚所帯の家具を運んで来てくれた。
紫檀の洋ダンス、和タンス、整理タンス、40年後の現在も立派に我が家の重鎮として、でんと構えている。
自分がとても揃えられない、見るからに高額な家具調度類だと思うが、家を出る娘への餞別の品だと、ありがたく頂戴した。
新居は6畳二間のアパートと話していたが、折角の好意を断ることはできない。
ベッドに台所テーブル、無事に収まったが、二人の動き回る隙間がほとんどなくなった。
しかし、隙間がないということは、身体的にも気分的にも、悪いことばかりではない。
動くたびに手の届くところに在るので、新婚夫婦のおフザケには、丁度よかった。
妻もおそらく生まれて初めてのびのびとして、軽やかなスキップを踏んでいた。


生活にも落ち着いてくると、最初に取りかかったのは、妻のジョギングの伴走だった。
妻の両親の承諾を得るとき、約束していた、
「ぼくが、必ず、リュウマチを退治します!」
その頃の妻は、走ることはできなかったが、数分間の軽い速歩はできた。
徐々に訓練すれば、運動能力は上がると考えていた。
愛の力で、リュウマチを黙らせて見せる、本気でそう思っていた。


写真は、