ひげ爺の今は〇〇となりにけり。

初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

だから、四十九日のお供え御膳は、ふっくらとした「うな重」にした

2021.07.28
四十九日、満中陰、そんな言葉の意味を考えたこともなかった。
お寺を頼まないし、人も集めない。
家族だけで、妻の供養をして、今日で一つの区切りを迎えることになる。
これからは、妻は自由に動ける。
大坂の両親にも会いに行ける。
両親の墓所は、信貴山中腹の広大な墓苑で、歩行に困難な妻は、最初の頃は支えられながら坂道を上り下りしてお参りしていたが、ここ20年は駐車場で皆の帰りを待っていた。


墓所は義父母が存命中に、自分たちで選んだものだろう。
古代史好きの自分は想ったものだ。
そこからは方角的に、チヌの海(大阪湾)が遠望できる。
その先には、祖国、台湾、大陸が見える。
考え過ぎであろうが、立地選びに、その意識も多少はあったに違いない。
開発して、区画を広げる度に、永代使用料の値上げを迫られると義兄はぼやいていた。
言葉は悪いが、ボウズ丸儲け、
お布施の高で、あの世の事が決められて、タマルカ!


妻は極楽にも、当然、地獄にも行かない。
中有に留まって、自分が来るまで、待っていてくれるだろう。
もう少し、介護の面倒は見られたが、妻の心身がそれを良としなかった。
「スーもこれで楽になった」
心の片隅に、どこか在った皆の(自分の)願い、
妻も、心から、管を外して「楽になりたかった」のは間違いない。
身体、心の病、不自由であった者が先立つと、「どうか天国で安らかにお眠りください」と祈りがちだが、そんな響きの良い言葉よりも、ときに想い出して一緒に色んな場所に連れて行ってやる方がいい、に決まっている。
時々見かける、陽だまりや木陰での惚けた爺の独り言は、たいてい先に逝った亡妻に話しかけている、慙愧の表れなのだ。


妻は鰻が好きだった。
育ちが関西だから、穴子の方が好きだったようだが、小金井のM診療所から連れ出して、浅草にうなぎを食べに行った。
場所も店も知らないのに、二人で一緒に歩くことが幸せで、飛び込んだウナギ屋で目の前で焼いてくれるのに感嘆して、極上の喜びを感じた。
だから、四十九日のお供え御膳は、ふっくらとした「うな重」にした。
妻も、喜んで食べてくれるだろう。
匂いだけ嗅がせて、すぐに取り下げた御膳を、自分が相伴する。
妻が目を丸くして、「ダメよ、半分こ」と手を伸ばせてくる。
また、善きかな。


写真は