ひげ爺の今は〇〇となりにけり。

初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

ポロポロと泣いた

2022.09.13 
自分の家から、義祖父の住んでいる総社駅近くの長屋まで、たぶん5キロほどある。
小学生が、のこのこ思いついて歩いて行く距離ではない。
真備町から総社市まで、バスも通っていなかった。
伯備線清音駅まで子供の足だと徒歩1時間、清音から総社まで一駅6分、駅から数分の義祖父の住まいまで、そんな回りくどい経路を誰も取らない。
おそらく自転車で通ったものだろう。


自転車も、現在のママチャリはまだ田舎に普及していなかった。
昔の、荷台の大きな大人用、子供には跨って乗れない。
逆三角形のフレームの間に、脚を入れて、窮屈にペダルを漕いでいた。
大人たちの自転車に乗るためには、その格好で乗るしかなかった。
少し大きくなると、サドルに跨れるが、足が地面に届かない、宙乗りでペダルを蹴って回すしかなかった。
背が伸びるまで、それでどこにでも行った覚えがある。


義祖父は、夫に若死にされた寡婦の祖母と、どんな取り持ちであったか婚姻し、祖母が亡くなった後、村を出て総社駅前の長屋に住み、その時には若い女が同棲していた。
自分が10歳、母が42歳、その上の世代であるから、70歳前後、今の自分と似たような年頃のジイ、しかし、見かけは若かった。
母は内心、「おじいさん」を嫌っていた。
義祖父の背中には一面のモンモンが彫ってあったからである。


通りに面した玄関の引き戸を開けると、土間があり、その奥に畳敷きの一部屋。
そこにどっかと胡坐をかいた、頑丈なダルマさんのような図体の老人が、こちらを睨みつけている。
上がり框には、真っ赤な口紅を引いた、どこか物憂げな雰囲気の蓮っ葉姐さんが、煙草をプカプカ噴かせている。
戦後10年、その頃の世相を描いた映画に出てきそうな情景であった。


自分は用事があって、義祖父の住まいを訪ねているのではない。
行けば「よく来た」となにがしかの小遣いをくれるので、それを狙って、えっちらと横乗り自転車を漕いで行くのである。
疲れるから、何度も途中で自転車から降りて、押していた。
母親は「おじいさん」から小遣いをもらうことを快く思っていなかった。
なにしろ、「おじいさん」の肩肌と背中には、人を畏怖させる刺青がある。


その日、義祖父のオンナなのか、賄い婦なのか分からないが、真っ赤な口紅の同居人は遠路はるばる訪ねて来た10歳の自分に優しかった。
近寄りがたく、自分もどういった人間関係かわからない年頃であったので、できるだけ避けようとしていた。
すぐ近くに、映画館があった。
オンナは、そこに自分を連れて行ってくれたのである。


『別れの一本杉』春日八郎
そこで自分はポロポロと涙を流していたのである。
『別れ』のつらさに、泣いたのである。
泣けた、泣けた~ こらえきれずに泣けたっけ~
「おじいさん」のオンナは、そんな小学生に驚いて、自分の化粧の崩れた面は棚に上げて、
「この子は感受性の強い子じゃ」と「おじいさん」に話していた。
自分は日本語の中で、『別れ』という言葉に、一番感銘する、と思っている。