ひげ爺の今は〇〇となりにけり。

初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

読書し、書いて、旅に生きて行く道を選んだ

2021.07.09
妻の実家のことばかり話して、自分の故郷のことはほとんど語っていなかった。
それを語らずして、この旅路に終わりはない、のはわかっている。
しかし、煩悶している。
明らかにする必要はない。
ここまでで、わかる人には分かるし、わからぬ人に、解ってもらおうとも思わない。
しかし、妻のことは明白に中国人と話したのだから、自分は何者かを明らかにしないと、平等ではなくなる。
中国人の対比でいえば、日本人、アメリカ人、韓国人、などになる、もちろん日本人だ。
その日本人が、しかし、苦しい弁明となる。


自分は何者か、そんな問いをしなければならない、時期があった。


自分は、岡山県吉備郡真備町というところに誕生した。
現在は倉敷市に併合されて、倉敷市真備町、になっている。
真ん中を、古代よりの、旧山陽道が走り、低い山並みに囲まれた、のどかな田園地帯のはずだ。
三年前の豪雨で、川が氾濫し、大災害にみまわれたので、真備町は有名になったが、それ以前にも、奈良時代の吉備真備、作家横溝正史の金田一耕助モノで有名ではある。
低い山すそに、連なって点在する、集落の一つが自分の故郷である。
高梁川の高い土手堤から眺めると、まったく田園風景以外の何も目に入らない。
伯備線清音駅からデゴイチに乗って、毎日倉敷の商業高校に通い、毎日自転車で川辺橋を渡って、家に帰る。
ある日、それは失恋したか、友人と諍いをしたか、いずれにしても人に関わる問題で、とぼとぼと自転車を踏んで帰っているとき、見慣れた景色のどこにも代わり映えはないのに、自分の家の集落の上空だけが、赤々と燃えている、
その光景に長い間、悩まされた。


小学校に通う道筋の、隣の集落とも、その先の集落とも、特別に何も変わりはなかった。
門とか黒塀とか、大きな家はあったが、それは分限者、小作農、の違いであって、人の違いではない。
自分は内気な少年であったので、その理由を親や教師に尋ねることもなく、胸の奥深くしまって、読書し、書いて、旅に生きて行く道を選んだ。
それが正しい人生行路であったかどうかは、わからないが、故郷遠く離れた小金井のM診療所で、妻に巡り合う、第一の要因であったのは間違いない。


写真は、足漕ぎ水車