ひげ爺の今は〇〇となりにけり。

初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

大切なのは、今を生きる者たちの、立ち位置だ。

2021.07.10
本日も入りは、自分の事から、になる。
やはり、それなくして物事は始まらない。
臭いはすれども姿は見えぬ、まるでおヌシは屁のようなもの、になってはたまらないからだ。


自分の生家は、昔のごく普通の農家の造りで、屋内作業用の土間があった。
そこで両親は、いわゆる夜なべ仕事をしていた。
イ草の苗割り、自家他家用の草鞋作り、売り物の熊手作り、など遅くまでしていた。
三反の自作農だけでは、どうしても1年の暮らしには物足らない。
土間の奥は、格子戸で仕切られた、二連かまどが据えられていたお釜場だった。
上がり框の4畳の客間の天井には、女子供には重い、吊り階段がぶら下がっていて、祖父たちの時代には蚕を飼っていたらしい。


中学生になり、自分で吊り階段の上げ下げができるようになると、そこに囲い部屋を作って勉強部屋にした。
囲いの材料は、ベニヤ板とダンボールで、客間の二股ソケットから電気コードを伸ばして、明かりを取っていた。
座机は、自分で作った。
広さ半畳の箱空間、あぐらを組んで、頭をひねっていた。
空気抜けの小格子窓がついていて、そこから遥か沖合の、伯備線の列車の通るシュシュポポの音が聞こえて、どこか楽しい、懐かしい、自分だけの秘密基地だった。
4畳客間の奥は8畳の居間で、並びに3畳の納戸という間取りだった。
両親、子供6人が住むには、手狭な家であったかもしれないが、決してみすぼらしい家でもなかった。
京間のホンケン造りだから、帰郷のたびに意外と広々とした造りであったと感じたのを覚えている。


自分が働くようになると、将来の嫁取りのために、土間をつぶして、廊下と部屋二つを新たに造った。
室内から下足に履き替えて行く裏の便所も、庇が広かったのもあって、渡り廊下にして、快適にした。
台所もフローリングの板場に改築した。
姉たちは、そのころには皆、順に嫁いで行って、居なかった。
せっかく嫁取り用にあれこれ手を加えたのに、自分は家を飛び出してしまった。


家の敷地に上がるために、高い三段の石段を登る必要があった。
最初に妻が挨拶に来たとき、石段登りに、自分は手を差し伸べていた。
それを見て、出迎えた両親は、農業で生計を立てるまでの家でなかったことを、幸いに思ったことだろう。
初から、嫁に尻を敷かれているとも思ったかもしれないが、それについて意見を言う、親でもなかった。
結婚して、翌年、長男が生まれる前の7月に亡くなった父の葬儀には、義父と義兄がやってきてくれて、村中総出の見送りに、感慨深げな面持ちだった。
義父と義兄は、天井の吊り階段の跡に興味を持って、そこで自分の勉強部屋があったと話すと、目を丸くして感心していた。
時々散見する、史家の少数意見にあるような、平家の落人の隠し部屋、あるいは隠者の瞑想場、とでも思ってくれていたら、それはまたそれで愉快な曲事だった。
不明不確実な事は、何とでも言える。
大切なのは、今を生きる者たちの、立ち位置だ。
そうして、妻の実家の人たちとも、丁寧な付き合いができるようになっていった。


写真は