ひげ爺の今は〇〇となりにけり。

初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

涙雨ならぬ洗雨が降っていた

2021.06.14
式が終えて外に出ると、涙雨ならぬ洗雨が降っていた。
葬儀は市営斎場で行った。
子供たちと一緒にタクシーに乗り、時間前にかなり早く着くと、すでに大阪の兄弟たちは全員そろって待っていた。
皆、後期高齢者になるが、肉体的に自由業で鍛えているせいか、酒・ゴルフと闊達な人たちだ。
82歳になる長姉は気持ちの落ち込みがひどく、旦那とその長男が来てくれた。
長兄、次兄、一つ違いの弟、妻からよく可愛がってもらったという長姉の次女とその娘の、総勢七名とこちらの家族三名、
故人を盛大な葬儀で見送るなど考えたこともなく、家族葬だと知らせていたが、そのとおりの質素地味な葬送であったことに、やや拍子抜けしていたようだ。
妻の亡父母の葬儀は驚くばかりの豪壮なもので、そのようなものを見慣れた者には確かに多少の不足感は否めなかったかも知れない。
それでも控室で、妻の様子や、この時節の入院生活など話しているうちに。
「スーもこれでやっと楽になった」
弟がそう話して、皆、口々にそのことを乗せると、瞬間、嗚咽にのどを詰まらせていた。


火葬式の時間がやって来、場所を移動して、お棺に入った妻と対面した。
自分たちは、病院から連れて帰って一日ゆっくり妻と語り合うことができたが、兄弟たちには20分しか時間は与えられていない。
外出の時に妻のお気に入りであったという、スカートとシャツと帽子を、娘の空(ヒロイ)が羽織ってやり、その上にありたけの生花でお棺の空洞を埋め尽くした。
いよいよのお別れ、その時、自分の後ろに立っていた息子の快(ココロ)が、大きな声を発して母親を見送ってやってくれた。
「ありがとうございました!」
高校を卒業するや、家出同然で世間を渡っていた、たまに家に帰って顔を見せるとすぐに居なくなった、2月の終わりにひょっこり帰り、妻が入院するまでの約2か月間、一緒に同じ家で暮らすことができた、物心ついた頃から母親が健康体ではないことを知っていた、母親に多くの親不孝をかけた、お詫びと感謝の気持ちが入り混じった、惜別の発露だった。


骨上げまで、皆で待ち、骨壺に拾い上げて、行事は終了した。
漂白された小さな骨灰の下方に、それだけが大きな黒い物体が焼け残っていた。
「人工関節です」
そんなものが膝に入っていたのかと、肩骨や尾骨のあまりの小ささに比して頭蓋ははっきりと頭と分かる大きさで、そこに向かって呻いていた。
遠来の妻の兄弟たちをタクシーに乗せて送るときに、雨が降っていたのに気づいた。
「先ほど降り出したばかりです」
遺骨、遺影、を抱えて自宅に帰り、子供たちと出前を取って早めの夕食を終え、風呂に入り、8時には寝た。
ふと目覚めて起きると10時だった。
パソコンを開けて、届いているお方のブログを読み、niceを押した。
またすぐに寝て、ぐっすり眠って、目覚めたのは午前4時だった。
階下に降り、仮の白木の位牌と妻の遺影にローソクと線香を立て、黙祷した。
不思議なほど、心静かであるのは、多様な人の営みをブログで見ることで独孤の殻に閉じこもらないで済んでいる、そのお陰だと思う。
その意味でも、ブログを介して、この先も歩いて行く。
都之隠士の介護日誌と思い出の記、タイトルも変えて更新して行きます。


写真は、一人置かれては寂しかろうと、家族写真の遺影です。10年も前に出席した、或る宴のときに撮ったもの。