ひげ爺の今は〇〇となりにけり。

初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

人の営為など知りません、ジュエに救われている

2021.06.19
いろんな用事・雑務に追われている。
その中に、役所の手続きというものがある。
これは残された者から、故人を想う時間を省いて、他の事に振り向けさせる、意外な妙法であるのかもしれない。
24時間、亡き者のことを想って、崩れていけるものでもない。
通夜、二日、三日と経ち、早や、初七日が過ぎた。
自分が生きている限り、妻のことを忘れるものではないが、想いが希薄になって来ているのは確かだ。
前日、最初に出会った場所を訪ねて、それが大きく変わっていたことで、何か胸のつかえが吹っ切れたのかもしれない。


必要があって、出張所に戸籍謄本(妻の除籍)を取りに行って、
「こちらにはありません」と言われて、驚いた。
「まだできていないの?」
「いえ、こちらには戸籍が移っていません。本籍地から取り寄せるようにして下さい」
住民票は幾度も取る機会があったが、言われてみれば、戸籍謄本が必要となるようなことは今までなかったのか。
子供たちはこちらで出生したので、本籍地はこちらになっている。
自分の本籍地は岡山、妻もその頃に入籍したので、そのままになっていたようだ。
家に帰り、電話で問い合わせ、ネットの方から戸籍謄本請求書をプリントして、必要事項を記入して、郵便局に行き、小為替450円×3と返信用封筒を同封して、投函した。


本籍地はその人の生誕地を表している。
単なる、その人の存在証明にすぎないが、或る時代まで、もしかしたら現在もそれを取沙汰する、パパラッチ亡者が居る。
昭和56年、父が73歳で亡くなってのちに、取り寄せた役所の戸籍謄本では、わが家の名の残っている先祖は、天保3年生まれ、治郎吉になっていた。
それ以前は、星のくず、の仲間であろう。
役所の古い記録が残っているのにも驚いたが、天保といえば、天保の大飢饉、天保六花撰、ぐらいしか思いつかない。
当時の庶民の通り名では、ドコソコ村の治郎吉と呼ばれていたに違いないと思うと、笑えないものがあった。
歴史にあまり首を突っ込まない方がいい、は一つの真理でもある。


写真は、人の営為など知りません、ジュエに救われている

×

非ログインユーザーとして返信する