ひげ爺の今は〇〇となりにけり。

初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

世間知らずはお目出度い、自分の方だった。

2021.06.21
20代の半ば、四国遍路横峯寺から石鎚山に登り、疲労困憊して家に帰り、死んだようになって横たわっていた。
「白目が黄色になっている」と指摘されて、倉敷の市民病院の診察を受けると、即刻、急性肝炎でその日のうちに入院、体中が黄疸で着ている寝巻がまっ黄色になった。
大人数の囲いも無い部屋であったから、遠慮のない長老たちの会話が聞こえる。
「可哀そうに、この若さでもう長くは保つまい」
両親もそう思ったらしく、親類縁者が次から次にと見舞いに来た。
しかし、一月余りも入院したら元気になった。
30歳の時に、これではいけないと一念発起、どんな経緯であったか忘れたが、上京していわゆる文学同人誌というものに参加して小説を書き出した。
そこでまたムリを重ねて、どうも体調がだるい、診察してもらったのがアパート近くのM診療所、そこでの診断も急性肝炎、二度目だから慢性肝炎になるか。
慢性肝炎の次は、肝硬変が待っている。
ここは長く、6か月近くも入院させられた。
二階の畳敷きの床にベッドを置いて、タコ部屋のように仕切られた、長養生を第一とする、そんな診療所だった。
故郷の父母に連絡した覚えもなく、無職で収入のない身で、どうやって入院費を支払うことができたのか、今もって不思議な半年間だった。
国の、そういった援助に頼った覚えもない。
あるいは診療所の方で、その手続きをしてくれたのかもしれない。
M診療所は無料で入院できる、そういった風評で県外からの入院患者が多かったのか。
院長は女医先生で、夫婦ともに診察していて、共に恰幅のいい福々しい顔をして患者に当たっていた。
その後に、今日まで大病したことがなく、まったく健康で過ごせたのは、よほどこのときの診療が適していたのだろう。
ともあれ、そこで妻になる女性、楊玉新と知り合った。
名前の中国名に惹かれ、そんなくすんだ病院に大阪くんだりからやって来ている、治療費も払えない貧乏人の娘だろうと勝手に推測して、ちょうど自分にはお似合いの相手だと考えたのだから、世間知らずはお目出度い、自分の方だった。


写真は、現在のM診療所

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