ひげ爺の今は〇〇となりにけり。

初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

離れたところから二人のベクトルが交差した

2021.06.18
汗を掻きながら、くたくたに一心に歩いたことで、頭の中に目的物以外の何も消えていた。
40年前の記憶しか残っていない。
yahoo地図を印刷して、テーブルの上に置いていたA4用紙を持ってくるのを忘れた、が、武蔵小金井駅からの方角は分かっている。
駅を背に、北北西に進路をとれ、だ。
急ぐ旅路ではない。
当時も、診療所を抜け出して駅に向かった道行も、ゆるゆるとした足取りだった。

駅構内も、駅前の様子も、すっかり変貌している。
とにかく直線ではM診療所にたどり着けないのは、当時駅前まで歩いて行って、戻り道が迷い路になって、それを内心喜んでいたのを覚えている。
方角のみを頼りにずんずん歩いて行って、記憶にある貫井北町という地名が出て来ないのにやや焦りながら、五日市街道まで突き当たってしまった。
スマホに代えて、地図アプリというものが付いているのだろうが、それをまだ利用したことがない。
玉川上水、下流の三鷹あたりで、太宰治が入水したと記憶する。

M診療所を見つけたら、そこから入院中に仲良くなった連中とよく散策した道をぐるりと歩こうと考えていた。
男4人、女3名、その中にのちに自分の妻になる、当時楊玉新と名乗っていた、細身の、間違いなく嫋々とした雰囲気の、女が居た。
独身の男どもは皆、「楊さん、楊さん」とのぼせ上っていたが、どうしたわけか妻は自分を選んでくれた。
同じ年で、生まれも関西方面、というのが話しやすい一つの要因だったろう。
東京に出て、いわゆる文学同人誌というものに参加して、そこに小説作品を発表していた、それが『文学界』同人誌評に3回ほど取り上げられていた、それだけの小事を大げさに吹聴して、結果的に世間知らずの女を騙した、ことになる。
しかし、妻は自分を選んだことを後悔していなかった、と思う。

玉川上水を遡ってから左折、逆の道順に戻って来て、ようやく記憶にある、銭湯、M診療所、とたどり着いた。
通りの向かい側、わずかの距離に自分の住んでいたアパートがあった。
自分は数百メートル、妻は数百キロメートル、離れたところから二人のベクトルが交差したのだから、人の縁とは不思議なものだ。
M診療所はM歯科医院と名前を変えていた。
敷地の一画は、駐車場になっていた。

銭湯は、もうやっていないらしく、煙突だけが残っていた。
自分の住んでいた辺りは小さなマンションがいくつも建っていて、当時のアパートらしきものが一つだけ残っていた、たぶんこんな二階屋の隅の部屋で、未来を見つめて暮らしていた。
昭和52年(1977)ごろ、先の見えぬ人生の岐路に、妻楊玉新は現れて来てくれたのだった。


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