ひげ爺の今は〇〇となりにけり。

初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

先立たれた男の供養はそれしか思いつかない

2021.06.15
格別、信心深い男ではない。
若いときは、無神論・無宗教、自力こそ尊い、他力などに頼るものか、の気概があった。
それを、不自由にも窮屈にも感じない、鈍感さを粋がっていた。
それもどうやら、様変わりの、心境になったようだ。
ふと、妻は何も食べなくても平気なのか、入院中は差し入れもできなかった、
あれを食べたい、これを食べたい、と自分に訴えることも出来なかった、
お腹をペコペコに空かせているに違いない、
夕食を作りながら、そんな思いに囚われた。
思い起こせば、田舎の母も、毎朝仏前にご飯を供えていた。
最期の数年は出来なくなっていたが、足を引きずりながら、仏壇に向かう姿を、帰郷の度に見かけている。


プランターのキュウリが何本も大きく成っていたのを、朝の水やりのときに気づいて、三本収穫していた、
キュウリの塩揉みは妻から教えられて、家に居たときから作っていた。
塩ふり、手もみ、水あらい、絞り、砂糖、酢、など手際よく進めていく。
ずっと朝はパン食だったので、長年、炊飯は夜に一合弱、が決まりだった。
仕事から帰ってくる息子と二人、それでは足らないので一合半、残った分は次の日の昼食に賄う。
今夜のメインは、豚の生姜焼き、
忌明けまで待つ、精進落ちというのもあるらしいが、妻に肉をふるまわない法はない。
子供たちも、日常の生活に戻った。
残された者には、明日を目指して生きて行くしかない。


お供えの段になって、飯器がまだないのに困ったが、それは何とかなる。
旅にしあれば椎の葉に盛る、そんな歌もあった。
妻が愛用していた、マイセンのティカップ皿の上に、ご飯、キュウリ揉み、生姜焼き、と並べて供えた。
我ながら、妙にシオらしくなった、と感心していた。


写真は、しばらく妻を偲ぶ、先立たれた男の供養はそれしか思いつかない