ひげ爺の今は〇〇となりにけり。

初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

妻の荷物の引き取り

2021.06.16 
月曜日は1回目のコロナワクチン接種に、駅向こうの指定医院まで出かけた。
火曜日は大学病院に、5月分の入院費の支払いと、そのままになっていた妻の荷物の引き取りに行った。
いったんは持ち帰っていた、車いすと酸素ボンベを、妻の強い要望で、半ば呆れながらもいずれは必要になるのだからと、持ち運んだものだが、結局はそれらが使用されることはなかった。
そのときの妻の「家に帰りたい」を、息のある間に実行してやれなかったことが、やはり夫として悔やまれることだ。


大きな物はその二つで、たいしたことではないと思っていたが、意外に大量の個人残留物が用意されていて、2か月間の入院生活の大変さを想った。
車いすのハンドル部分にいくつも紙袋がぶら下げられていて、座席にはさらに大きなビニール袋が山なりに積まれていた。
9Fの看護士長と事務担当が二人で運んできたものを見て、
「こんなにあったの?」
紙おむつなどの消耗品の残り物は、その場で選り分けて廃棄を依頼して身軽くしたが、それでも酸素ボンベを片手で引きずりながら車いす上の荷物を落とさないように押していくのは、難儀だった。
事務担当が見かねて玄関までついて来るというのを断り、ハンドルに酸素ボンベの取っ手を引っかけることでまっすぐ歩けて、ようやくタクシーに乗り込んだ。
もう来ることはあるまい、そう考えると、感慨深いものがあった。


思えば、この大学病院には40年も前から通っている、
リュウマチ膠原病内科、東病院、国立病院、と後半20年はなだらかな増悪で、いずれの時も妻に付き添い、一人で行かせることはなかった。
ここ5年間は肺炎でicu緊急入退院を繰り返し、妻にもそれは分かっていた。
亡くなる10日の午後に危急に駆け付けた時の、鼻口に管がつながれてやっと呼吸していた、それでも薄目を開いて自分だと分かった妻の唇の動きは、
「もういいです。あなた、ありがとう、さようなら」と言っているように思えた。
それから7時間後に、兄弟皆の想い、「スーもこれで楽になった」、妻は永遠の眠りについた。
28歳で発病してから、75歳まで、十分に生きた。


明日は、妻との出会い、なれそめから書いて行こうと思う。
終わりを見たのだから、始まりも有る。
東京小金井市の学芸大学近くの、小さな診療所だった。


写真は、しばらく妻を偲ぶ