ひげ爺の今は〇〇となりにけり。

初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

土の色、土の匂い、それは即ち、人の色、人の匂い、

2021.05.31 日曜日は一日、田夫になって過ごした。
といっても、田や畑があるわけではない。
庭の一画、プランターに植えた、トマト、キュウリ、ナス、サヤエンドウなどの手入れ。
花壇の、咲き終わった草花の枯れを取り除き、新しい芽を促す、細かな作業。
花は咲いたらそれで終わりと考えていたら、古きを除き新しきを招く、それをすれば花のイノチは短くない、との妻の教えで行うようになった。
腰かけ椅子を持ち出して、咲き終わった一茎ごとにハサミで切り落とす。
若いころには決して出来ない、ヒチ面倒な作業が少しも苦にならない。
肩を丸めて、しゃがみ込んだ姿勢を、伸ばしたり縮めたりして、無心に向かう。
その姿、麦わら帽子を被っている。
『三国志』劉備玄徳が曹操の疑念をそらすために、田夫の姿で毎日庭を耕していた、それにあやかれそうな、自然体になっている。
劉備のように、大望のために本心を隠しているわけでもない。
草むしり、土いじりは、自分の暇つぶしにうってつけの行いになっているのだ。
炊事洗濯掃除の主夫から、庭に出て田夫になる、実に屈託が無い。
これは、先祖伝来の小田夫であった自分の血が、身の落ち着き先を教えてくれているのだろうか。
そうできればいいが、そうならないのが自分の偏屈なところ。
まだまだ、田夫であるには修行が足らない。
土の色、土の匂い、それは即ち、人の色、人の匂い、につながる。
世欲に、充ち満ちている。
それが自分の生きる張り合いにもなっているので、やめられない、止まらない。


写真は、日曜日の成果