ひげ爺の今は〇〇となりにけり。

初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

まだまだこれから開拓する余地がある

2021.05.06 テレビのお笑い番組や、バラエティ番組が、以前のように素直に楽しめなくなったのは、受け手のこちら側に柔軟さが無くなったせいだろう。
ドラマの場合も同じく、顔は分かるが名前はほとんど出て来ない、
「ああ、あれ、何と言ったけ、AだったかBと言ったけ」
では、ますます入り込めない、時には日本語でなく外国語を喋っているように聞こえることもある。
人の声が、鳥や風の音に聞こえるようになれば、それはそれで一つの極意、境地に達したと言えるかもしれないが、耳鼻科に行こうものなら、
「突発性難聴、幻聴、ですね」の一言で片づけられるにちがいない。
そうやって社会から締め出され、何事にも関心が薄れるのは、生き物である人間の正しい経年の姿でもあろう。
若いころに、長寿の国の老人たちが何するでもなく公園のベンチに寄りかかって陽の光を浴びている様に、言いようのない憧憬と或る種の悼ましさを感じたのは、いずれ自分もあのようになるだろうとの想いが、あったからか。
しかしまた、悠久の歴史を持つ国では、老人たちが朝の玲気の中でゆったりと両手を広げて太極の空気を掴もうとしている、姿も見た。
自分はまだまだ、こちらの、太極の空気を掴もうとする人間でありたいと思う。
もう何年も前から、
朝、庭に出て、背伸びの体操、そのときに、太陽に向かって大きく口を開け、その光を喉の奥深く呑み込むようにしている。
何ということもない、自己流のおまじないのようなもの、
それで英気が漲れば、安い御用、だ。
未開の古代人も、たぶん、そうやって太陽を呑み込もうとした。
自分もまだまだ未開、これから開拓する余地があると信じて行こう。
写真は飛鳥の地祇たち