ひげ爺の今は〇〇となりにけり。

初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

自分の余生を視つめるしかない

2021.04.29 自分は母親の32歳のときの子で、母が102歳で亡くなったとき70歳になっていた。
郷里に帰り、病院で看取ったのだが、深夜に電話で起こされて、いよいよと覚悟を決めて病院に向かった。
兄弟姉妹6人の下から二番目、やっと生まれたただ一人の男の子だった。
老齢の姉たちに連絡するまでもなく、一人で行き、まだ身体につないだ機器類は動いていたが、当直医師がやって来て、しばらくしてモニターから波形が一本の線になった。
「ご臨終です」とたぶん、掌を合わされて、すぐに去っていった。
看護師に迎えの車を手配するように言われたが、こちらで生活していない、また自家用車に乗せられるものでもない、「こちらで手配します」に任せて、夜が明けるまで霊安室で母と二人で黙って居残っていた。
「もうあまり長くない」と連絡を受けて、たぶん一週間近く、空き家になっていた昔の我が家に一人寝泊まりしてその時を待った。
毎日病院に顔を見に行ったが、酸素吸入器で覆われていて、目を開けているのか閉じているのか、ほとんど反応はなく、息子が来たとわかっていたかどうかもわからない。
霊安室で二人きり、母子、何を語り合ったものか、まったく覚えはない。
葬儀を行い、いよいよお棺の蓋が閉められたとき、兄弟姉妹その子供たちの泣き声につられて涙を流れたのを覚えている。
村の人々に挨拶しながら、故郷を捨てて、都会の人間になってしまっていることを詫びている自分が居た。
必ず、村のお墓に入る、帰ってくると約束して、また声に詰まっていた。
生前、その母親が或る日、ぽつりと言った言葉を覚えている。
母は学はないが、達者な字で、よく手紙を書いて寄こした。
妻も感心する、しっかりした文章だった。
「お母さんを書いたら小説になるかな」
それはどこの親にもある、重みのある、人生の行路だ。
母親の戯言を、いつの日か自分のものにして、描いてやろうと考えて、今日になっている。
もどかしい、自分の余生を視つめるしかない、毎日でもある。


※おくりびとさんのブログに触発されて書いています。