ひげ爺の今は〇〇となりにけり。

初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

「死にたい」は「生きたい」の同義語

2021.04.02 車いすに背凭れして、よく寝ている姿を、最近見かける。
テレビの音量を外に聞こえるほど大にしているのに、見ているうちに眠気に襲われたのか、まったくそっくり返って大口を開けて寝ている。
若い頃なら、100年の恋も一瞬に吹っ飛ぶ、寝顔だが、そう想う間もなく、こちらの思惑に気づくはずがないのに次には口を閉じて眠っている。
こちらの姿勢は、口許がへの字になっているので、やや不満相に見える。
無意識でも、どこかに本人の気持ちが表われてくるものなのか。
決して満足のいく人生ではなかっただろうと、妻に代わって、憮然とする。
思いっきり弛緩した表情は、やはり大口を開けて眠っている方で、こちらの方は見ていて安心できる。
時に、大きな鼾をかいて寝ている。
眠るが如くに迎えが来る、とはよく聞く話だ。
実に我慢強い歳月を送っていた妻が、ある時期、「死にたい」と口走るようになったことがある。
それはまだ頭がしっかりしていた頃の話で、肺炎で幾度がCIUに担ぎ込まれて命拾いして以後は、そんな文句もまったく出なくなった。
「死にたい」は「生きたい」の同義語だという。
「死にたい」とも「生きたい」とも言えなくなった者は、何を拠り所にして生きて行くのだろうか。
夢でも見たのか、
「ジュエ、ジュエちゃんはどこに居るの」と声に出している。


願わくば満開の桜の下で