ひげ爺の今は〇〇となりにけり。

初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

三代の先生にお世話になって

2021.03.17 妻の同窓会報というものが届いた。
確か昨年に、もう送ってくれなくていい、と返事したような記憶があるが、年会費を払って居ないのに郵便物で届いた。
数十ページもある、立派な印刷冊子だ。
妻はチラッと目を走らせただけで、すぐに興味を失っている。
このような身体になって、皆との想い出を楽しめないからではなくて、その中に入って行く根気がなくなっているのだ。
「○○先生とはよく山に連れて行ってもらった」
これは薬学生の頃の、立山に登って行ったという、恩師の話。
「△△ちゃんは、いつもわたしの背に隠れて避難所にしていた」
これは中学・高校生の頃に、活発なクラスの姉御であったという、若かりし頃の妻のさもありなん自慢話。
私立の女子校であったから、当時の健康優良児の体格からして、女親分になれたのだろう。
妻と知り合った時には、その面影は失われていた。
ゆっくりと歩く、それ故に、楚々とした女性に見え、たぶんその雰囲気に惹かれた。
大坂の女が、東京小金井の小さな診療所に入院していた。
その近くのアパートに住んでいて、体調不良で、たまたま診てもらって、
「君、これは入院して治さないとダメだね」
そう言われて、総勢20名? ほどの二階のタコ部屋に押し込められた。
それがそもそもの、出会いの奇妙、だった。
義兄がやって来、「××君、諦めてくれ。妹は簡単な病気ではないんだよ」
そう言われて引き下がる性格ではなかったので、結婚した。
共に30代になっていた、遅咲きの百合の花と屈折したモミの木、だった。
よくも無職の男に随いて来てくれたものだ、
そう振り返ることができるのも、今現在も夫婦である神妙さ、故だろう。
大学病院の主治医回診の折、インターン生がぞろぞろ随いて来て、
「ご主人、済みませんが学生たちに奥様の、手指の変形、こわばり状態を見せて、リュウマチという病気を学習させたいのですがよろしいでしょうか」
申し出を断る理由はない。
なにしろ、この大学病院には40年間の世話になり、最初の主治医は引退し、若い医師に引き継がれて、今、その若かった主治医が膠原病の重職に就いて、次の若い医師にバトンされた。
「先生。三代ですよ。三代の先生にお世話になっています」
どこかに引き攣る感覚で、笑って見つめているしか、答えはあるまい。


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