ひげ爺の今は〇〇となりにけり。

初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

多情にならざるを得ない共有時間の長さ

2021.03.18 水曜日は朝9時10分に、リハビリ療養士がやって来る。
コチコチに固まろうとする関節をほぐして、身体の潤滑を促している。
60分の作業時間だ。
妻の元々の病阿はリュウマチで、それは永年の活動期間を経て、今は終息期にさしかかっている。
それが分かるのは、朝のこわばりが薄れていて、衣服に腕を通す際の折り曲げに「痛い!」を連発しなくなった。
もっとも、年を経ると、誰もがすべてに鈍くなる、のでもある。
パジャマの上にベストを着せて、一日を過ごすようにしている。
大き目のパジャマに、ややきつい、ユニクロの半纏。
片方の腕は差し入れるだけだからスムーズに行くが、残ったもう片方の腕を通すのに現在でも四苦八苦している。
幾度も「痛い」を体験しているので、その都度に声を出しそうで、用心の上に用心を重ねて行なう。
その要領、手加減が分かっているのも、夫婦ならでのことだ。
子が親の介護をするのと、親が子の介護をするのとでは、気持ちの容れ方が違う。
親は子を育ててきた経験値がある。
親は子に時間を割かれても、苦痛に思わないで済む、捨身愛がある。
子は親の面倒を見て来た経験値がない。
子は親に時間を割かれると苦痛に感じる、自身愛がある。
ときどき、介護に疲れた子が親を殺す事件が起こるのは、親に対する愛情がなくなったからではない。
ひとえに、限られた自分の時間を奪われる、その腹立たしさからだろう。
在宅介護は、家族の行うべき時間を、介護事業者に時間売りをして助けてもらうようなものだ。
それに対して介護事業者の得る報酬は、充分なものではない、との指摘もある。
子は親に対して薄情なのではない。
親が子に対して多情なのである。
夫が、あるいは妻が、連れ合いに優しいのは、多情にならざるを得ない共有時間の長さがあるからなのである。
朝から、そんなことをふと思った。


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