ひげ爺の今は〇〇となりにけり。

初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

柳町婦人に一目ぼれ

2021.01.09 シャキシャキの江戸っ娘というわけでもなく、上方産まれだということは訛りでわかる、動作がややゆったりしているのは、育った環境がそうさせているのだろうと思っていた。
こちらは不摂生な独り暮らしから急性肝炎になって入院、小金井の小さなM診療所で知り合ったのが、リュウマチで名医が居ると聞けば全国の病院を渡り歩いていた、妻だ。
共に32歳のときだった。
M診療所は病院らしからぬ治療院で、何が名医の評判なのかわからないが、たしかに地元の患者よりも遠くからの入院患者が多かった。
食事療法と、とにかく時間をかけて体内の血液循環を図る、そのような医療方法であったような気がする。
知り合った時がすでに妻は柳町婦人になっていたわけだから、その後の変転にも驚くことはなかった。
これが元気溌剌な娘と結婚し、その後に実に厄介なリュウマチになったのであれば、どこかで舌打ちの一つや二つは出たかもしれないが、いずれは介助の必要になるのはわかって一緒になったのだから、文句のあろうはずはない。
ただ、それほどリュウマチの知識があったわけではなかった。
妻の母親は、若くしてリュウマチになった娘の治療のために病院を探し、本を読み、それが不治の病であることを知っていた。
それであるから、もちろん結婚には反対し、結婚して長男が産まれた時の最初の言葉は、
「無事に手足がそろって産まれて来てくれたか?」だった。
それほど大量の和漢洋のクスリを服用していた。
そうやって産まれた長男が、中学生のころから行方不明になること度々、こちらからのケイタイに出たことはなく、向こうから用事が有れば電話をかけて来る、
今では生きていることを確かめられただけで安心するようになった。
悲観することもあるが、夫婦二人、とりあえずの新年を迎えられたことを喜んでいる。
柳町婦人は、昔々、何することもなく付けた小説のタイトルです。


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