ひげ爺の今は〇〇となりにけり。

初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

深夜の呼び声は、同居人の情愛の確かめ

2021.03.04 声を出すということは、自分の思いを他人に伝えたい、からである。
声に出さないと、何事も人には伝わらない。
面と向かっているわけではないから、身振り・手話などに頼ることもできない。
自分の胸中に語る、独り言というものもあるが、それを夜中に行い始めると人の領分から別の何かの領分に侵入したことになる。
それが度々重なると、夢とうつつの区別がつかなくなって、あたかもそこに他人(入魂)が居るかのように話しかけて行く。
妻の場合、深夜の呼び声は、同居人の情愛の深浅の確かめであった。
通常の、妻の話し声はかすれて弱々しい。
すぐ側に居ても、聴き取れないことがしばしばである。
妻の寝ている部屋から、二階の夫の寝室まで声を届けさせるには相当に大きな声でおらばなければならない。
冬場だから、すべての境戸・ドアは閉められている。
妻のベッド室の真上は空き部屋で、天井の梁を伝ってと言うわけにはいかない。
それで深夜ふと声が聞こえたような気がして飛んで行ったら、果たして、夫を呼んでいたのである。
「痛い!」故の、突声であるから、魂の乖離からの寝惚け声でなかったのは幸いだった。
降りたら、恍惚として微笑んでいる妻の顔があったでは、やや怖気の対象になる。
「痛い!」は現実世界の、嬉しい便り、でもあった。
届いた痛み止め薬を、その日の夜、昨日朝夕と飲んで、気持ちも落ち着いたようだ。
しばらく毎週水曜日の夕食は長男の当番制になって、とりあえずはダイニングバーのオーナーシェフでもあったのだから、普段の夫の作る単品料理とは味付け・手間暇の掛け方が違う。
白菜・トリ肉・エノキなどのまぜあんかけ、レタス・トマト・キュウリを細切れにして木製のお椀に盛った野菜サラダ、手作りシュウマイ、見ただけで料理らしい御膳になった。
それをぱくつきながら、やはりポロポロこぼして、「美味しい、美味しい」と声に出せば、さすがの「痛い」鬼滅も、退散するというものだ。


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