ひげ爺の今は〇〇となりにけり。

初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

夫婦の有り様について

2021.01.29 昨日は、いずれ介護施設に預けることを考えて、特養ホームやら介護サービス付老人ホームやらを検索して、ついになんと、熱海・伊東あたりのホームに辿り着いた。
さらに探して、浜名湖あたりのホームも見つけて、資料請求までした。


今朝になり、いつものルーティン、起床から食事・歯磨き・服薬・洗濯、
天気があまりに良すぎるので布団干しまでして、庭の八朔をついに一つ捥いで二人で味見していると、これがなんとも言えず、平穏な老夫婦の有り様に思えて来て、施設に預ける考えは萎んだ。
考えれば、妻を施設に追い遣って自由になる、介護放棄にもつながる。
夫婦で話し合って介護施設を探そうとしたのではない。
夫が勝手に妻を押込めようとしている、罪悪感がある。
そんなところに、まさかの資料請求先のホームから早速の確認電話が有り、その応対の声に妻が気づいて、起してからその説明に苦慮した。
妻は施設に遣られることに意見は挟まないが、なにか考え込んでいる。
その姿を見ているうちに、済まない想いで涙があふれてきた。
このことに限らず、年経て涙もろくなっている。
あれは涙腺がゆるんだのではなくて、流す残余の期間が少なくなって、生きている間にすべて吐き出したいとの意識が働いているからにちがいない。
本人に納得の意志があるのなら、それもまた一つの選択肢だろうが、なぜ自分がホームに行かなければならないのか理解できていない者に、施設に預けるのは罪の意識以外の何ものでもない。
「やめた。もう施設の事は考えない。この家で最期まで面倒を見る」
それに対して妻の言い草が、たしかにどこかおかしい。
「パパはいつもすぐに話すことが変わる」
これはどこにつながる感嘆だろう。
夫の目から涙があふれても、それを訝しがるふうでもない。
もっともドライアイのために涙の出ない妻の目にも悲しみは看て取れる。
だから余計に不意の涙に襲われたのだ。
夕方のテレビニュースを見ていて、
「明日は大雪だと言っている」
それは関東の山より地方のことを報じているのだが、それは耳に入らず、「大雪」のみが頭に入る。
朝早く目覚めても、日誌を書く余裕が失われていたので、ついに29日を飛ばして30日に投稿することになった。


写真は故郷の倉敷市真備町