ひげ爺の今は〇〇となりにけり。

初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

病院内のガラスに映っていた、自分の顔

2021.04.14 妻の、普段使っていた化粧品や看護用品を抱えて、バス・電車・バスに揺られて病院に行った。
意外とかさばる荷物になったので、JR駅まで徒歩で行くのも大変で、バスに乗った。
タクシーを呼んで乗るほどの気持ちはない。
横浜線が遅れていて、大学病院行のバスにやっと間に合った。
担当医師から、蜂窩織炎は完治できそうですと言われて、「二週間もしたら退院できます」に安心した。
しかし、気になる足の黒ずみは治らないという。
血管が死んでいる、再生しない、と言われて
「そのままで退院して、普段の暮らしに差し支えないんですか」
「いままでと同じようにはできますが、細菌に感染しないように注意しないと、二本の血管が働かないのですから、いつかは……」と口を濁された。
妻と直接話せるわけでもないので、すぐに病院を後にした。
病院のバス乗り場に向かうところで、妙な男に遭った。
妙な、変な、としか言いようがない。
釈然としない思いのままでいたので、半分、脳も視力も劣化していた。
過去は誰にも、どのような場合でも変えられない。
他人に成りすまし、他人に成り変わる、などの物語が、テレビドラマなどで取り上げられることがあるが、現実世界にそうそう多く見られる事象ではない。
しかし、人生経験によってはまったく若かりし頃の面影がない、目、鼻、口、顔の骨格、などがまるで残っていない、すっかり他人顔になってしまっている人も居る。
何十年ぶりかに出会った、深く関わって名前も顔も覚えているはずの知友が、そんな驚きを持って出現する。
「おい、A君ではないか。A君だろう?」
「誰……?」としか返答ができない。
「ぼくだよ、Bだよ」
オレオレ詐欺ではないかと、思わず身構えている。
Bという名前に覚えはあるが、記憶にあるBはこの男ではない。
「人違いです。わたしはAという名前だが、あなたを知らない」
そう言って、男から逃れた。
急ぐことでもないのに、バス乗り場に向かう、病院内のガラスに映っていた、自分の顔はどんな貌をしていたのだろうか。