ひげ爺の今は〇〇となりにけり。

初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

どちらからともなく笑いを誘う

2021.04.13 老者が、家の中から消えた者を追い求めると、どうしても昔の若かりし頃の追憶になってしまう。
そしてそれは、大抵、いい気なものだ。
傍から見られたものではない。
あれは時の流れが、面の皮を厚くして、羞恥心を覆ってくれるからだろう。
旅行に出かけて、姿が見えなくなったのではない。
例の、悪い虫が這い出てきて、病院に連れ去ったのだ。
庭に出て、伸び始めた花壇の草むしりをする。
軍手を脱ぐと、ごわごわとした鮫皮のような掌が、さらに乾いて白っぽくなっている。
水道の水で、掌をこすり、甲もなでて、何気なくじっと手を見る。
壊れた庭椅子に腰かけ、何するでもなく想っている。


当時は滑らかな皮膚の色艶だった。
急な石段を降りて行く、自然に女の手を取り、海岸の砂の上に降り立つ。
触れ合った血潮は、その先も、砂に埋もれまいと手を差し伸べて、今度は強く固く握りしめて行く。
潮風はこの上なく、若いふたりの人生を、賛歌してくれている。
寄せる白波も、海のほほえみに感じられる。
二人で並んで、砂の上に立つ。
サーファーは波に乗り、波の上を奔る。
海は洋々としている。
うしろで、犬を連れた母子の歓声が聞こえた。
振り向いて、他愛のない、ひとことを洩らして、どちらからともなく笑いを誘う。
どんな時に、そこに行ったものだろうか。