ひげ爺の今は〇〇となりにけり。

初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

ドキドキの未来を―旅に病んで夢は化け野を

2021.01.23 未来を描けなくなると、つい愚痴っぽくなる。
今現在の愚痴の対象は、若かりし頃に共に研鑚したつもりだった文学仲間たちが、同じような老齢となって、他人の事にまで構い回らなくなったことだ。
それが当たり前であると分かっているが、一抹の寂しさはある。
年に一度の年賀状の交換だけではいよいよ疎遠になると思い、12月に急遽作成したホームページのアドレスを添えて、2020年度に書いた小説作品を各紙の新人賞に応募したことを連絡したが、残念ながら食指は動かなかったのか、覗いてみてくれた形跡がない。
あいかわらずの暴走老人だと思われてしまって、好きなようにさせてくれているのか。
30歳前後の頃の情熱は、ドキドキの未来に満ち溢れていた。
結婚し、家庭ができ、60歳を過ぎたころから今再びの情熱に駆られて、70歳になってからは何することもない身となって、いよいよ昔に戻ってしまった。
たぶん、還暦を過ぎて、今現在は15歳のニキビ面の少年になっている。


この322枚の小説は次のような書き出しから始まります。


乾ケンゾウの趣味は、世間がもっとも唾棄するであろう、老爺の女人愛です。
女人愛は、想像力と勇猛心がないと叶わない、人生の旅人に希望と喪失を運んでくる、葦の箱舟です。
トレッキング、路地裏探訪、秘湯めぐり、などの健気な余生に、一味の彩りを添えてくれる、forget me not勿忘草です。
美術館で絵画を見て感じ入るのとさして変わりはないのだが、女人愛と言葉に出したとたんに、蛇蝎の如く、白い眼で見られるのは、老爺に対する偏見ではないのか。
老爺が女人を愛して、悪いという法はない。しかし、老爺の女人愛というと、伏意に女人愛玩の臭いを嗅ぎ取られて眉をしかめられる。
そのために彼は、美術館に行っても、展示している裸婦画や裸婦像の前では長く立ち止まらないことにしている。
ゆっくりと芸術作品を鑑賞したいのだが、じっとそれらに見入っていると、どこからともなくよからぬ視線が注がれているのを感じるのです。
そのように見られているであろうと考えるために、乾ケンゾウには老爺特有の攻撃的な側面があります。
通常の老爺が持つパワー以上に、一瞬間にドーパミンが大量発生する、斧の巌石割り、なところがあります。
そして、実はそうなのです。彼の本質は、よからぬ女人愛です。
テレビを見ていても、人間の弱みにつけ込んだ、高齢者向けのオムツや健康サプリのコマーシャルばかりが目に飛び込んでくる。
まったく、気が滅入る。
わしのように露骨に女を愛してみろ。
彼は読んでいた文庫本を投げ出して、駆け出そうとする。
読書と運動と内省が、彼の三種の仁義なのです。
乾ケンゾウは、いわゆる中年増好みです。
木喰い虫ではないが、樹木に譬えて、若い乙女は柏木の堅さで内に入り込めないが、中年増には桜木の柔らかさがある。
桜木には幹の内部に涕のような旨味がたゆたうといて、それが彼の想像欲をそそるのだ。手強そうに思える桜樹ほど内はもろく、一発拳で叩くと、樹皮が剥がれて空洞がのぞいて見える。
中年増も、できれば子持ちの女人がよい。
一夜にして、お腹の膨れが萎んで因果の結晶が飛び出てくる、そんな感動を一、二度は体験した、三十路のまだ若さの残る主婦がいい。
乾ケンゾウのよからぬ女人愛が透けて見える、これが偽りのない彼の気持ちです。
乾ケンゾウは、そのような内輪の願望を、訪ねて来たNPO法人日本愛護協会の笛吹一郎に話した。


ところで、昨夜のお好み焼きの評判は散々でした。
二人きりなのにあまりに沢山作り過ぎて、ひっくり返す時にグジャグシャ……