ひげ爺の今は〇〇となりにけり。

初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

安土城址 信長の真骨頂を見た

2022.05.15 
歴史上の偉人で一番好きなのは、織田信長。
水呑み百姓から天下人になった、起き上がり小法師、秀吉、
結果として260年続いた徳川の世を盤石なものにした、苦労人、家康、
どちらも優れた人物であったのは言うまでもないが、
秀吉には棚ボタに成り上がった者の天下ビジョンが間に合わず、
家康はただ本家安泰のために、権現様となって、諸国民の反乱を抑えた、
そのあたりが、自分には不満の、人物評。


信長は、叡山焼き討ち、一向一揆殲滅などの悪行多々あれど、それはただ自身に刃向う者に立ち向かった、それだけのこと。
神仏を無闇と信じる人々の世に、絶大な権威となった総本山に異を唱えて、火を放っただけのこと、
南無阿弥陀仏の六字の名号を掲げて、死を怖れぬ者どもに、
父信秀の葬儀に、抹香を投げつけた、その気性が更に発展して暴走しただけのこと、
秀吉、家康には人間の温かみを感じないが、信長からは人間の善悪の彼岸を突っ走った、周縁の摩擦に身を焦がした者の体温を感じる。
信長、もし天下人まで生きておれば、秀吉の栄耀栄華に浸る事は無く、家康の人民統制(公家・武士・町人・百姓)などの階級制度に拘ることもなく、人外とされたえたひにんなども人の栄枯盛衰の流れに任せて、安土の天主から次の偉業(外洋雄飛、たぶん秀吉の大陸侵攻などではなくヨーロッパ)に想いを馳せていたであろう。


5月13日 そのような想いをもって、安土城址を訪れた。
午前中、くもりということで、朝早く出立、安土駅に着いて、案内所も閉まっている。
ロッカーもない。表のレンタサイクル・預かり所に一つの大袋を預けた、330円。
タクシーに乗り、10分足らずかな、950円。
現在は干拓により陸地になっているが、築城当時(1576)は琵琶湖の内湖に囲まれ南方のみが開けた地形であった、と案内にある。

標高199m、急峻な石段を上るには杖なくしてはこの歳では不可能。
城下の人々が腰をかがめて杖にすがって登って来るのは笑いながら眺めても、部下の将兵たちがよたよた登って来るのを見つけると、容赦なく叱りつける。
当時を生き抜くには、まずは鍛えた体躯が必要と、つくづく思い知らされる。
大手道、信長公本廟、本丸、天主、などに人気はなく、
寂しくはなし、天空の遺構に、吾ひとり。

天主跡からは地上の景色は見えず、さらに数段上った木々の向こうに、湖と城下の営みが見えた。
帰路は総見寺の三重塔、二王門、を見て下りた。
建造物はこの二つのみ、信長が甲賀の長寿寺から移築したとある。

受付所に借り杖を戻して、振り返ると、
あらためて急な石段が頂上に向かって続いているのに、信長の、真骨頂を見たような気がした。


海上散骨

2022.04.12 
生前の妻の希望通り、遺骨を海上散布した。
4月11日、快晴。初夏の気候だった。
子供たちも来てくれたので、家族そろっての見送りができた。
横浜みなとみらいぷかり桟橋、写真のような、クルーザー船が待っていた。

乗船の説明と、船長の奥さんが記念写真を撮ってくれた。
自分は162センチ、長男176センチ、長女168センチ、並んで写って親子の現在の勢いの差を感じた。
親は小さくとも、子は大きく育つ。
妻は自分とほぼ同じ身長、亡くなる時は縮んで150センチまで小さくなっていた。

陸は無風であったが、船はかなりのスピードで波を蹴るので、乗り物酔いの薬をとあらかじめ云われていたのが分かるほどの、波しぶきと横揺れがあった。
さいわい、三人共、船酔いにはならなかった。
ベイブリッジを背景に写真を促され、これも一連のプログラムなのだろう。


所定の場所まで来て船は停止し、遺灰・献花の投下場面では、動画で撮影してくれた。

花びらの浮かんだ投下地点を船は小さく汽笛を鳴らして、一周し、そして横浜港、山下公園に接岸したままの氷川丸、ちょうど寄港していた豪華客船asukaを洋上から見せてくれて、ぷかり桟橋に戻った。
所用時間50分、そのあと、中華街に行き、親子三人で会食した。
妻とも、何度か来たことがあるので、その話題を中心に。


妻の遺骨は分骨、一つは小さな骨壺に納めて仏壇の内に、もう一つは故郷の自分の家の墓地に碑銘を刻んで納骨する。

これで、このブログも当初の妻の介護・その回想からは一旦終了する、ことになる。
明日からは、しばらくはブログから離れて、自分の来し方を振り返り、いわば自伝のような小説を書いていこうかと思っています。
気が向いたときに皆様のブログを読ませてもらい、訪問のしるしにniceを残していきます。
ありがとうございました。



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「竹田の子守歌」

2022.04.08
Niceが消えたり、コメント欄が無くなったり、IDを変えて再出発したり、
それぞれ、皆、muragon村の住人であることに、工夫しているようだ。
何が良いことか、わからない。
あまり、名前を出さない方がいいのだろうが、名無しの権兵衛ではかえって失礼、血が通わない空疎なものになる。


あいかわらず、独特の表現者、空っ風のきち太郎さん。
ちあきなおみの「花吹雪」を聴いた。
そこに隠された、きち太郎さんのもう一つの「歌」があった。
さらに、ユーチューブの紹介する元歌にまで踏み込んで聞いた。
知っていたことでもあるが、改めて感じた、こともある。


早速に、本日のtwitterにさえずる材料にした。
「竹田の子守歌」
別のブログの中で、それについて会話を交わした。侵略だとか、虐殺だとか、心すさむことばかり。
「竹田の子守歌」を聞いて、空を見上げて、優しい気持ちになろう。


昨日は、別のブロガーさんにも、コメントした。
二人とも、妻の亡くなったころに、コメントいただいた、優しいお方たち。
懐かしさについコメントして、コメントが返ってきたのは、嬉しいばかりです。
とはいえ、あまり他人のブログに立ち入らないように心がけています。


きち太郎さんは、男気のある空っ風野郎、よく歌を知っている、
現役のころは、マイクを握って、聴衆(女の子)をタラシタ、口だろう。
今回も、感極まって泣きながら歌う、きち太郎の哀愁の声を聴いた。
年経ると、いつでも涙が出てくる、いやだいやだ、なあ、