ひげ爺の今は〇〇となりにけり。

初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

火宅を如何にとせむ

2022.08.15 
昨夕、雨戸の戸締りをしていると、どこからともなくコオロギの鳴き声が聞こえた。
いつもは庭の花水木の幹に留まって、突然にやかましいほど声を張り上げる、蝉の鳴き声も今年は少なかった。
季節の便りを交わす、親戚、知友たちからの暑中の挨拶も無く、寂しいようで安気でもある、怠惰な夏の日々を過ごしている。


テレビを見ていると、相変わらず、事件事故に切れ目のないこと、
只、無為徒食の余生を送るのに、いささか飽いている。
3年前(73歳)までは、近くのマンションの管理人兼清掃人として、隔日出勤の週3日は働いていた。
自分の年金月額9万円ほど+妻の障害年金8万円ほど、家賃の要らぬ住まいであったから、老夫婦二人、とりあえずは普通の暮らしぶりは維持できた。
車は有ったが、タクシーを呼び、妻に少し無理をさせて引っ張り出し、たまには二人で焼き肉店などに行って、ビールもたらふく飲んでいた。


ちょうどその頃、大阪で10年ほどダイニングバーを開いていた息子が、破綻した。
前任者のオーナーから店舗を引き継ぐ際、親である自分が保証人になっていた。
辞める時には、次の引受人を見つけること、明け渡しの時には店内を空にすること、
スケルトンの意味がよくわからないまま、はんこを押していた。
まだ20代の終わり、大阪駅近くの、ダイニングバーを持つには、ムリがあった。
引き継ぐ際の一括金、500万円を我が子のために用立てるのにどんな躊躇もなかった。
これをチャンスに、あとは自分の力で、大きくしていけばよい。


水商売、浮き沈みはある。
浮いている時は退かれず、沈んでいる時にはさらに引けない。
店を畳んだ後は、ケイタイに掛けてもほとんど電話に出ないので、もしや死んでいる(自死するほどヤワではない、訳有で痛めつけられているのではないかと)幾度か警察に電話して生存を確認し、大坂に尋ねてとりあえずは元気な顔を見て、安心していた。
妻の見舞いには病院に駆けつけて、最後に入院する前の昨年の年明けに家に帰って来て、6月に妻を見送った後はそのまま自分と二人、犬のジュエとこの家に住んでいる。


大阪を引き払うために、日常取引先の借金はチャラにしてもらう、それしかない。
息子は弁護士に頼み、自己破産の選択ができるが、テナントの保証人になっている自分はどうしたらいいか。
スケルトン代の見積もり、1000万円だという、そんな金が有るはずがない。
金はないが、自宅の価値はある。
それを押さえられては、夫婦二人の住む処がなくなる。
いろいろ考えて、前年に屋根・壁の化粧直ししたばかりの、家を売却した。
老後には十分な住まいだったが、現在は所有ではなく、借家住まいである。


息子のために多くの散在をしたが、妻も自分も、そのことを苦に思った事は無い。
妻が亡くなった最後のお別れ、焼却の折の、息子の唐突な見送りの声、
「ありがとうございました」は、何物にも代えがたい、親子の惻隠の情だろう。
お盆の為か、いろいろ考えることが有る。
明後日水曜日は、三浦半島に一泊旅行、


月満ちて産ぶ声を上げるまで、残り38皿。

お盆のころの思い出

2022.08.12 
子供の頃に、仏壇の前に並んだ廻り燈籠のあやかし明かりの、どちらかと云えば恐い青い炎のゆらめきに、怖気て眺めていたのを覚えている。
ナスやキュウリで作った動物たちを、お供えとともに葦舟に乗せて、集落を下った所にある小川に流した。
沢山載せて流すものだから、葦舟はすぐに沈没し、「あーあ」と歓声を上げていた。



その頃に、家族総出で、近所の若衆たちの応援も願って、藁屋根の葺き替えをしていると、白装束の季節の訪問者がやって来、その時の、情景をなぜともなく覚えている。
自分は屋根の上から、母親たちが喜んでもてなしているのを見下ろしていて、たぶんそんな時には気持ちを持て余して、所在無げに青い空でも見上げていたものだろうか。


十日の妻の月命日、昨年亡くなった妹の新盆、に合わせて、お盆の禱りグッズなど出して、気持ちを新たにしています。
自分の場合、これからの1年1年が勝負です。
残った余生のすべてを、小説創作に注ぎます。
ちなみに、プロフィールの「三歳の時、川に流されて、旅人に助けられた」は本当の事です。旅人ではなく、たまたま自転車で通りかかった、何処の誰とも知らない、近辺の人、だった、ようですが……。残り41皿

子供に還る、佳き日の思い出

2022.07.23 
午前11時に家を出て、JR、東急と乗り継いで12時前に『こどもの国』に着いた。
と言っても、じいじが孫を連れてやってきたのではない。
自分には子供はいるが、孫は居ない。
入場料600円のところ、高齢者割引で半額の300円で広大な敷地内を、ぶらTUNOしました。

40年近く前に、家族で来たことがある。
自家用車に乳母車を積んで、まだ長男一人の頃だったと記憶する。
歩いてみて、意外な高低差があるのに、その頃は妻もかなり距離を歩けたようだ。
トンネルが有ったのを覚えている。

動物たちがどこまで居たか、当時とは変わっているのだろうが、大人でもロバに乗れるとのことで、爺がロバに乗っている写真を撮ってもらおうとして、
運悪く、ちょうど昼休み時間に入ったところで、
待つのが嫌いな性分で、親子連れが何組も待っているので、乗馬は諦めた。

園内を見て回るだけで、2時間もして帰り支度、出口近くのレストランでかき氷を食べた。
このかき氷には思い出が有る。
長男が3、4歳の頃、土日になると臨時収入を稼いでいた。
夏と言えば、かき氷かひやし飴、
機材を仕入れて、相模川の河原で、にわかかき氷屋を始めていた。
飛ぶように売れるとはこのことだ。
いくらで売ったか覚えていないが、たぶん許せる範囲のごっつぁん値で長蛇の列。


何日目かに、地回りがやって来て、
「誰の許可を得て店を広げているのだ! すぐ畳め!」
自分はまあこんなこともあるだろうと肚を決めていたが、妻はそうではなかった。
「兄ちゃん、いいやない。このくらい見逃してや」
平然と言ったものだから、地回りはなめられたと思ったのか、客が並んでいるのに
パラソルとかき氷台をひっくり返して荒ぶってきた。
地回りには小学中程の子供を連れていて、そいつが親の背中を見て、どんな大人になって行くか、なす術もない自分たちを勝ち誇ったような眼で眺めていたのを覚えている。
我子は3歳ほど、びっくりして泣いていたが、それがトラウマになる不祥事ではあるまい。


当時の自分はとにかく金を稼がなければならない。
生命保険のセールスをしていたが、休日に成ると決まってアルバイト、
「まいどお騒がせしております。古新聞・古雑誌などございませんでしょうか」
のチリ紙交換を長くやっていた。
そうやってアンテナを張り巡らし、40歳で自営を始めるまでは、人殺し以外は何でもやる、精神だった。残61日