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初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

金錯銘鉄剣は奈良史跡よりも遠かった

2022.03.14 
予定通りに北に向かって、淵野辺駅7時40分乗車、八王子→高麗川→川越→大宮→行田駅着11時前。すべて各駅停車の電車で時間がかかる。
自転車をレンタル、さきたま古墳群に着いたのは11時半ごろ。
所用時間3時間50分。
これを淵野辺から逆に南に向かって、新横浜→新幹線京都駅→奈良まで行くとして、3時間40分で行ける。
5世紀の金錯銘鉄剣は奈良史跡よりも、まさに歴史時間で遠かったことが証明された。

鉄剣に刻まれている文字、
辛亥年7月中記す、オワケの臣上租名はオホヒコ、其の児タカリのスクネ、其の児名はテヨカリワケ、其の児名はタカヒシワケ、其の児名はタサキワケ、……、
其の児名はヲワケの臣、世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。
ワカタケルの大君の、シキの宮に在る時、吾天下を左治し、此の百錬の利刀を作らしめ、吾が奉事の根源を記すなり。


これが1600年前の武蔵の国の豪族によって遺された、古墳を発掘して読み解いた、史跡碑文学者には頭が下がる。


この日は、頭の中が喜びで充たされ、リセットされたのもあって、例によって、新しい小説(情話)の構想が湧いたので、楽しき一日であった。


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