ひげ爺の今は〇〇となりにけり。

初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

早朝の雪景色、汚れちまった悲しみに

2022.01.07
数年に一度の雪景色を目の当たりにして、つい雪にちなんだ話になる。


今老人の諸子の多くが教科書で読んだ記憶が有るだろう、
トンネルを抜けると雪国だった(川端康成)
汚れちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる(中原中也)


トンネルに感動したものではないが、汚れちまった悲しみは多感な少年には応えたものだ。
何がというのではない、少年には特別なアンテナが立っている。
昨日の、風君やまふまふ君に通じる、
汚れちまった悲しみは、次のように続いて締めくくられる。


今日も小雪の降りかかる
今日も風さえ吹きすぎる
たとえば狐の革裘(かわごろも)
小雪のかかってちぢこまる
なにのぞむなくねがうなく
倦怠(けだい)のうちに死を夢(ゆめ)む
いたいたしくも怖気(おじけ)づき
なすところもなく日は暮れる……


乾いた老人の皮膚は、今や中原中也から大腹大幅になりがちなので、
毎朝、姿見の前に立ち、上半身裸(実は下も半裸)になって、
両手をぶらぶら、肩をぐるぐる、腰をくねくね、両脚をけんけん、アスレしています。
家の内で、妻の見えるところで身体を鍛えていると、ベッドの妻に済まない思いがして、いつしか黙って家を出て行き、戸外で、汚れちまった悲しみを、感じていたものです。
老人になっても、青少年の時分の感性は消えないものですね。