ひげ爺の今は〇〇となりにけり。

初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

遊びをせんとや生まれけん

2021.02.17 妻の状態を専門医から認知症の症状ですと言われたわけではない。
2年も前、大学病院を退院するときに、状況判断のような問診のペーパーを広げられて、各種の項目にチェックされて、その一つ一つの受け応えに妻がスムーズに即答できないのを知った。
側で視ながら、高齢者の健忘症とはちがう、異な感覚をもった。
名前はすぐ答えられた。
「生年月日は?」
「昭和20年……」一寸考えて、月日が出て来た。
「西暦では?」そんな質問もあったような気がする。
「……」
すぐには出ないのに、どうでもいい愚問だと、妻の方を持っていた。
そんな考えもあって、プロフィに0945年生まれと洒落てみた。
0945年(天慶8年)とはどんな年なのか、歴史年表で調べると平将門・藤原純友の乱の起こった頃の時代らしい。
もっとも乱とは政治の中枢側の見方であって、将門・純友の側から言わせれば、天慶の革命に他ならない。
その時から1000年を経た、1945年(昭和20年)もまた、敗戦という革命の年であった。
その年に生まれ、青春時代の真っただ中に居た天皇といえば、あの昭和天皇裕仁ヒロヒトの顔が浮かぶ。
あの顔は実に神秘な天皇、朕思フニ堪エ難キヲ、そのものの印象がある。
平成天皇も、令和天皇も、ヒロヒト天皇に比べれば神秘さの薄れた地上の天皇になってしまった。
天皇の威厳ということのみで言うと、明仁アキヒト天皇も徳仁ナルヒト天皇も、父・祖父に並び立つことを許されぬ、国民の象徴に思える。
「朕思フ」から「私は思います」になったのだから、それも無理からぬことなのかもしれない。
天皇という存在は、神話の雲の上の存在であって構わないのではないか、と思う。
地上に下りたために、それまで見えなかった足が見えて、同じ人間であったのかと、どこかで失望する存在になってしまった。
ちなみに、0945年(天慶8年)は朱雀天皇、諱は寛明ユタアキラ。
近世の天皇の諱の多くが、某仁となっているのは何かの謂れが有るのかもしれない。
人ではない、仁である、と表しているのかもしれない。
今日は水曜日、街に出かけて遊びをせんとや、に興じてやろうと思フ。


都之隠士の世界