ひげ爺の今は〇〇となりにけり。

初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

感謝することを忘れない、人々たち

2021.07.04
大阪の義兄から、マンゴーが贈られてきた。
お中元、お歳暮が届くと、まず自分が電話をかけてお礼を言い、そのあと妻に代わって日頃のご無沙汰をお互いに思い出して長話となる。
ただ最近は、妻の声の出しようが苦しそうに聞こえるので、義姉などは電話の向こうで泣いているのか、逆に妻に慰められている。
決まって最後に、自分の事を話しているらしく、
「大丈夫よ。お姉ちゃん。良くしてもらっている、優しくしてくれている」
妻は、「お父ちゃん、お母ちゃん、お兄ちゃん、お姉ちゃん」と呼び、パパとかママとか呼んだことはない。
岡山の自分の両親、姉妹、その連れ合いたちに対しても、同じような呼び方で、親しく声掛けができる。
自分の見立てでは、義父似の長男の義兄が、もっとも漢民族のオトナの風貌をしていて、頼りがいのある肩幅の広い体格をしている。
妻と結婚して間もない頃、地球上各地に散らばっている客家(ハッカ)華僑の世界大会が品川プリンスで開かれた。
たまたま、義父が開催地日本の世話役の一人であったので、その宴会に招待されて、ドギマギした覚えがある。
「大丈夫よ。珍しい料理でも食べてくればいいわ。いろんな言葉が飛び交っているはずだから、皆、顔を見て、ただ、楽しんでいるだけよ」
そう妻に背を押されて出かけたが、義父から、世話役の何人かに、娘の婿だと紹介されて畏まっていた。
寡黙な義父だったが、大会に招かれ、娘の婿とまで紹介されては、発奮しないわけにはいかない、大感激だった。
義母は、結婚して翌年に生まれた長男を抱いてくれて、次の年に亡くなった。
唯一の気がかりであった、末娘も結婚して、子までできた、その安堵感もあったのか、まだ60代に差し掛かったばかりだった。
義父も数年後に後を追うようにして、逝去した。
義母が無くなった時に、義父が人目もはばからず大声で、
「ありがとう、ありがとう!」と叫んで棺を見送ったのは、胸に迫った。
感謝することを忘れない、人々たちの身内になれて、自分は幸せだ。


写真は、