ひげ爺の今は〇〇となりにけり。

初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

誰よりも、誰よりも君を愛す。

2021.07.02
昨日のような、大げさな気持ちを表明するまでもなく、
帰化する前の、妻、楊玉新はその名前を一目見ただけで、中国人だとわかる。
今回、自分の戸籍謄本を取り寄せて、そこに妻の名前が当初楊玉新となっているのに、戸籍というものの無機質な明晰さに、新鮮な驚きをもって視つめていた。
子供たちはもちろん、母親が中国人であることを知っている。
長い間、母親の実家の表札は「楊」のままだった。
義父亡きあとの、家を継いだ長男の義兄に、その名前に愛着があった。
まだ就学する前に、妻は帰化したので、学校提出の書類などに母の名前を書く必要があったとしても、そこには日本名「スー」と書かれた。
考えると、何か大きなそぐわないものがそこに有るのを感じている。
それが自分と妻が共鳴した、原点でもあった。


発音を一度だけ教えてもらった、「イーシィン」は自分が結婚したいと希った女性であるから、当然、自分も自身の生い立ちを話さなければならない。
故郷の両親は、ようやく息子の結婚相手が見つかったことを喜び、相手の女性の名前のことなど、気にも留めていなかった。
これで都之の家も途絶えずに済んだ、そんな思いひとしおであったのだろう。
内心は憂慮していたかも知れないが、案ずるよりは産むが易し、とはこのことだ。
中国人の文化圏の玉新が、どこまで日本の歴史遺制を理解したかわからないが、
ある時、話したことで、自分を理解してくれたと飛び上がらんばかりに喜んだのを、覚えている。
「台湾にも高砂族と言う、原住民がひどい扱いを受けたことは知っている」
この言葉を出してくれたことで、自分は一生、妻に感謝する。


自分には妙なこだわりがあった。
自分の結婚する相手は日本人でない方がいい。
日本人は過去のどこかで祖先が交差しているかもしれない。
決して交わっていない、遠い存在、太陽。
新しい血を入れて、新しい運命を切り開いていく、のだ。
それしか自分を救う、道はない。
なんとまあ、ややこしい男に妻は見初められたものだ。
よくこんな男について来てくれたものだ。
生きている間には言えなかった。
今、大きな声で言う。
誰よりも、誰よりも君を愛す。


そんな歌が思春期に、あちこち木霊していたのを覚えている。
写真は、木霊のような台湾の人々

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