ひげ爺の今は〇〇となりにけり。

初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

妻のノートと便せん

2021.06.27
大阪の実家に帰った楊玉新を待ち構えていたのは、非難の嵐だった。
大反対の、大合唱だった。
無理もない、どんな親でも反対する。
バランス感覚の弱った療養中に、知り合った、どこの馬の骨 (この表現は現在許されるのかな?) とも知れぬ男から甘言を囁かれて、あろうことか結婚したいと言い出したのだから。
両親が怒り狂うのも、納得できる。


楊玉新は名前の通り、両親の祖は大陸福建省の出身、台湾に渡り、そこから日本に渡り、大阪布施で育っていた。
日本語しか話せないし、日本の学校に行き、薬学部を卒業して、いずれは医者と縁を結ばそうと考えていた、両親期待の娘だった。
そんな家の娘とは、露にも思っていなかったのだから、自分も相当のノー天気だった。
出逢いが粗末なあばら家であったのだから、そんなところに自分の感覚で深窓のお嬢が住んでいたとは想像もできなかった。
もっとも妻は、相手が商業高校の卒業であることを知って、自身の上学歴をひけらかすことはなかった。これは死ぬまでなかった。
両親には、私よりは頭がいい、何でも知っている、難関の大学を目指したが入学できなかっただけで、決して他人に劣っていない、と力説したらしい。


妻は多くの葉書や手紙類を大切に保管していた。
最初の子供が生まれるときの里帰りしていた時に、日を置かずに速達で送って来る手紙の束、そういった中に、大学ノートにはさんであった数十枚の便せんにびっしり書かれていた、自分と結婚する前の心境をつづった、本人自身に宛てて書いた文章を読んで、妻の覚悟が、自分の考えていた以上のものであったのに、今になって、ショックを禁じ得ない。
妻は父母の薦める、中国人社会のエスタブリッシュメントたちとの経済的安定の人生よりも、いまだ何も分からない、自分の知らない社会の日本人である都之隠士という男の未来に、自分自身を賭けていたのだ。
妻はこのノートの存在も、当時の心境も、語ったことはなかった。
思い出を書こうとして、実に多くの遺品の中に、このノートと便せんを見つけて、読み進めるにつれて、涙が溢れて来るのを抑えることができない。
妻は結婚しようと心に決めた自分への想い、そこまで育ててくれた両親への思い、それを余すことなく綴って、楊の家を出たのだ。


写真は、妻のノートと便せん

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