ひげ爺の今は〇〇となりにけり。

初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

傘は持っていないが、いずれ止む、通り雨だ。

2021.06.24
昨日は朝の用事を済ませると、仏壇のはせがわに名前通りの仏具を求めに出かけた。
朝の用事とは、主に洗濯と掃除かけの二点、
家を空けるときは、火の回りを特に注意している。
ガスを最小の火にしたまま、うっかり忘れて、薬缶も鍋もフライパンも底にやけどの痕をつけてしまったことがある。
これは妻がまだ家に居て、会話や介護などに弾んでいたころの話、
今は、仮仏壇のローソクの火が点ったままになっていないか、確認している。


帽子を被り、マスクをつけ、長紐のバッグを背にかける出立姿になると、ジュエは自分には関係のないお出かけと理解して、おとなしく玄関で見送っている。
風通しに一階の窓の開閉ガラスを全開にして、空気の流れを良くし、室内が熱く籠らないように配慮している。
クーラーはつけなくても、十分に涼しいが、ジュエは玄関土間にへたり込んで、そこを夏場の最良の避難所とばかりに、澄まして帰りを待っている。
ジュエは幼気な愛児のようなものだから、うっかりして車に閉じ込めて熱中症で死なせてしまう親になってはいけない。
妻も最期になって、長男が帰って来、可愛いジュエとの二か月間を一緒に過ごせて、少しは気持ちに和むものが生まれて来てくれたのではなかろうかと、想うことにしている。
老齢になって、妻を失って独りきりの生活になってしまった侘しさを考えると、ジュエは妻が残してくれた、生きている形見のようなものだ。


身の回りのあれこれ、妻の仏壇を求めに出かけるまでの気持ちになって、これで一つの収束になる。
よく言われる、葬儀費用ぐらいは自分たちの手で、
妻にも僅かばかりの生命保険をかけていたので、病院の入院費を支払っても、給付金でお釣りが来る。
その金は妻のものだから、妻の供養のために使う。
出かけるときは曇り空だったが、はせがわの用事を済ませて、JR相模原駅に戻ったところで滝のような雨が落ちて来た。
傘は持っていないが、いずれ止む、通り雨だ。
明日は、妻を失った男の誰しもが思う、妻とのロマンスを語ろうと思う。


写真は、春の頃