ひげ爺の今は〇〇となりにけり。

初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

とっさに感じたフラストレーション

2021.05.20 高野山に登った時のことを、少し書く。
あれは4年ほど前、豪雨で南海線が橋本から先が運行不能になっていた。
自分は前夜、大和八木の旅館に泊まっていたので、JR和歌山線の橋本駅で降り、
代行バスで向かったわけだが、一時間近くゆられた記憶がある。
乗客はすべて観光客、多くは女性だった。
こういった観光バスに乗るときには、いつも不埒な願掛けをする。
どうかとなりに若い、木の芽時な女神が腰かけてくれますようにと。
リュックを座席に置いて、通路に姿が見えるとさっと空けて、「どうぞ」とさりげなく、
白髭のおじじになっても、旅の赤恥は、いつまでも消えないものだ。
このときがどうであったか、覚えてないので、あいにく如来さまはお成りにはならなかったのだろう。
どこを走っているのかわからなかったが、女人高野の九度山辺りをたぶん過ぎて、どんどん山道を走ってバス一台分が旋回できる駐車場に入り込み、そこで到着したのかと腰を浮かそうとして動き出し、スイッチバックのように通り過ぎた分岐道まで戻って、また登って行ったのに驚いた。
ケーブルの高野山口駅に到着して、そこから循環バスに乗って奥の院に向かった。
奥の院への通い道、初の頃に、昨日の司馬遼太郎の石碑に出迎えられて(目に付く大きさだった)、不意打ちであったのでやや不興だった。
本人が高野山に祀られることを希望したのか、遺族の方の想いであったか、どちらであっても、司馬遼太郎は高野山の人か、の違和感があった。
由来書きがあったのかも知れないが、とっさに感じたフラストレーションがそんなものを受け入れさせなかった。


戦国武将の墓碑がいくつも並んでいた。
太閤の近くに、織田信長が居た。
帰りに戦没者の碑も見たような気がするから、それで司馬遼太郎もここに祀られたのかと思わなくもなくなった。
400年も経つと、苔むす巌になって、やっと司馬遼太郎らしく見えるようになる。


織田信長は信長らしい墓石だった。