ひげ爺の今は〇〇となりにけり。

初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

闇雲に畏まらない、委縮しない、

2021.05.17 係留されたボートのロープが外れた、凧の糸が切れた、そんな精神状態にも似て、昨日はつまらないことを書いてしまった。
削除しようかと思ったが、それをやってしまうと反省ばかりで、これまたつまらない無味乾燥なブログになってしまう。
妻が不在であるので、どうしても物寂しくて、気ままな竹トンボになって飛んで行く。


昔、男ありけり、
その中で一番の思い出は、以前にも話した、骨董市巡りのシタンコクタンタガヤサンのオークション輸入家具会社、バイト時代。
新入りであったのと、気に入れられて、自家用運転手をさせられたことがあった。
これが、見たことも乗ったこともない超デカのワインレッドのアメリカン、左ハンドルのマーキュリークーガーというのを運転して、大阪堺の港に仕入れに行った、
「乗ってみろ」
その一言で、国道2号線を東にひた走り、最初は緊張でハンドルを固く握りしめていたが、それまで三菱ミニカ、ホンダN360、日産サニー、などしか運転したことがない、感覚的に、車幅も長さも数倍はあった。
骨董市に向かうUDトラックの運転とは、モノが違う。
巨大な割には、ステアリングの軽さと、エアサスの乗り心地、いかにも常人ではない出立服装で、ヒョイヒョイと追い抜いて行ける。
途中で社長の母親が住んでいるという、場所も地名も忘れた、当時1970年代初頭の社会情勢の中でも発展から置き忘れたかの、傾いた団地に立ち寄り、子供たちが珍しがって群がって来たのを覚えている。
まるで、『望郷』のペペルモコが凱旋したかの、その子分になったかの騒擾だった。
社長は雰囲気的にジャンギャバンのようなドス声で、「チビども、触るんじゃねえぞ」と言いながら、余裕の笑いを見せていた。
日本名であったが、当時の世情にまだ遺っていた、いわゆる第三国人であったのかもしれない。
しかし、そのような、いかにも偏見に満ちた眼で他人を見ない、その教えを身に着けていたので、それは即ち、闇雲に畏まらない、委縮しない、我が青春の信条でもあった。
会社を辞めて、しばらくして、強い先輩に会ったとき、
「社長、落札上のトラブルで銃を向けられ、素手で相手の銃をもぎ取った、それで警察から呼び出しを食ったよ。そんなことのできる者は、シロウトではない、ってね」
大柄な男ではなかったが、4、50歳の、躰に背負ったものが大きかった。
生きていたら現在では優に90を越えている、もう生きてはいまい。
煙が目に沁みる……。


写真は、伊勢内宮