ひげ爺の今は〇〇となりにけり。

初期の老々介護日誌から、思い出の記、艶笑小咄、別サイトで歴史情話など掲載

『シャレコーベの唄』

2021.05.08 ここ数日、歌がらみの記事を書いて、コメントも頂戴したりしたので、今日もそちらに向かいます。
カラオケ店に行ってまでして発散する、歌好きではないが、元々歌は好きです。
歌の嫌いな人はいない、嬉しいとき悲しいとき寂しいとき怒っているときでさえ気持ちを落ち着かせようとして突いて出るのは、まず歌です。
幾重にもある、胸の奥深くに在る、人襞の一番上にあるのは、歌です。
歌は音声そのものだから、動物の遠吠えに似て、悲鳴や叫びや語りの、もっともわかりやすい伝達方法です。
自分の気持ちを伝えるために、20歳のころ、倉敷のJAZZ喫茶店にたむろする連中と素人劇団を作り、その脚本と劇中歌を担当した。
当時は『ゴドーを待ちながら』など、不条理劇の全盛期であったように思うから、どうせそれを真似た消化不良のイカモノだったにちがいない。
芝居の細部は忘れたが、劇中歌は今も歌詞もメロディもよく覚えている。
ちなみに、こんな歌詞だった。


お嬢さん、そこのお兄さん、聞いとくれ
おいらの故郷 魚雷艇
出て来るもの皆、シャレコーベ
ちょうちんアンコウ 明かりの下で
話す語るは ただ一つ
愛を信じて 生きてゆきたい
話す語るは ただ一つ
今を信じて 生きてゆきたい
だけど出て来るもの皆 シャレコーベ シャレコーベ


これをボロをまとった、背の高いひょろ瘦せた女の子に歌わせた。
手作りのポスターを作って、倉敷の美観地区に至る道中のいたるところに『シャレコーベの唄』と、べたべた貼って宣伝した。
どこから聞き知ったか、京都方面からもヒッピーたちがやって来た。
20人も入れない暗い部屋に熱気がむんむんとしていた。
何を表現したかったのか分からないが、多感で、屈折した、青春を送っていた。
『戦争を知らない子供たち』の、叛乱の時代だった。


写真は飛鳥の残照

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